第7章 殺しはなぜ男で女ではないのか?
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どんな一夫多妻の社会でも、少数の男性は、どんな一人の女性が一生かかって持てるよりも多い数の子どもを持てるということは、男性の方が、女性よりもずっと頻繁に、非常に少数の子孫しか残さないか、まったく子孫を残せないことがあることを示している 結婚している男性の40%が一夫多妻
その他の成人男性は結婚していない
繁殖年齢にありながら、夫のいなかった女性はいない
20歳になるまでに子どもを産まなかった女性は195人に1人しかいなかった
40歳になった男性の6%には、まだ子がなかった
一人の男性が持てる最大の子供の数は23人だったが、女性にとっての数字は8人だった
繁殖をめぐる競争があるのは、女性ではなくて男性
男性間の差異の方が大きいので、その結果、競争が激しくなるから
男性は女性よりも、潜在的な適応度の限界が高いが、同時に、まったく子孫を残さずに墓場に直行する可能性もずっと高い(Ellison, 1985) 適応度の分散には性差があり、この差は、多くの他の性差と因果関係を持っている 性淘汰と「親の子に対する投資」
動物が持っているほとんどの適応的性質は生存のために有効な働きをしているものだが、ある種の形質、とくに雄が求愛の時に使っている形質は、明らかに生存にとっては不利であるように思われる
ダーウィンの解答は、たんに長生きすることが繁殖成功と等価ではないということ
自然淘汰では取り除かれるかもしれないが、性淘汰では拾われるかもしれない なぜ、性淘汰は第一に雄に当てはまるように見えるのか
それぞれの瓶にどの性の個体も同数入れた
それぞれ個体ごとに異なる「遺伝マーカー」をもとに、どの個体が誰の子であるかがわかるようにしていた 人間の目の色や生まれつきのあざのように、個体が識別できるもの
ベイトマンが発見したのは、雄の行動が雄の繁殖成功に与える影響は、雌のそれとは非常に異なるということ
雌では、適応度は、何匹の相手と交尾したかには影響されなかった
ともかく交尾しさえすれば、雌は60~80匹の子を生産することができる
雄の場合には、最終的な繁殖成功は、交尾相手の数と直線的な関係をもっていた
1匹の雌と交尾した雄はおよそ40匹の子を生産したが、2匹の雌と交尾した雄はおよそ80匹の子を生産した
配偶頻度が及ぼす影響の性差は、さらなる差異と関連していた
雌の上限は、雌自身が卵をどれだけ生産できるかという生理学的能力によって定められていた
少数の雄は平均よりもずっと多くの子を生産したが、子をまったく残せなかった雄の割合は、そのような雌の割合よりもずっと高かった
雄の適応度の分散は、雌のそれよりもずっと大きかった
「雄はだれかれの区別なしに熱心に交尾しようとするようになるだろうが、雌は、どの雄であるかを区別しながら受動的に振る舞うようになるだろう」
雄の適応度は、繁殖可能な雌へのアクセスによって直接限定されているが、雌の適応度は、雄へのアクセスによって限定されているのではなく、繁殖に必要な物質資源へのアクセスによって限定されている
もちろん、ヒトにおいては他の哺乳類と同様、雌の繁殖が、ショウジョウバエのように、単に卵の生産量によって限定されているわけではない しかし、哺乳類でも、ショウジョウバエと同様、雌の潜在的な繁殖最大数が雄のそれよりもずっと低く、雄の分散よりもずっと小さいのは事実
ロバート・トリヴァース(1972)がベイトマンの議論を洗練させて論じたように、ショウジョウバエでもヒトでも共通なのは、雌が雄よりも、個々の子どもに対して大きな「親の投資」(PI)を行う結果、雌のPIこそが実際に雄の適応度を限定する「資源」となっているのであり、それゆえ、雄はそれをめぐって競争するように淘汰されたということ ハエでは、PIにおける性差は、卵塊を作るための物質的なコストの方が、それを受精するための精子の生産コストよりも大きいことに起因している
女性では、投資は、9ヶ月の妊娠と、授乳(進化環境においては何ヶ月も続いた)、さらなる養育からなっている
男性は、のちにいくらかのPIを供給することもできるが、女性にとっては、選択肢はほとんどなかった
そこで、男性は、ショウジョウバエの雄と同様、現在配偶者が一人もいないか、50人いるかに関わらず、さらに別の女性に性的接近を果たすことができれば、自分の適応度を上げることになる
しかs,女性は、ショウジョウバエの雌と同様、この惑星上で繁殖可能なすべての弾性に接近したところで、自分の適応度が上がることにはならない
女性のライバルの存在は、、女性の適応度を限定するかもしれない
雄の適応度は、雌の適応度よりも、異性に対するアクセスによってずっと直接的に限定されており、その結果、配偶者の獲得をめぐる雌同士の競争は、雄同士よりもずっと少ない
そのような理由もあって、雌間の競争は、雄間の競争よりも間接的で闘争的でない
限定された食料をめぐる雌間の競争は、しばしば、競争者同士が顔を合わすことすらないような「スクランブル型」
ずっと重要な性差は量的なもの
雄間の競争は、単純に客観的な意味において、雌間の競争よりもずっと強い
雄間の適応度の分散は、雌間のそれよりも大きい
男性は女性に比べて、勝者の得るものが大きく、敗者は完全な敗者になってしまう恐れが強い
リチャード・アレグザンダー(1979)が書いているように、「その一般的な結果として、男性の生活史戦略の全体が、女性のそれよりも、大きなリスクを冒して大きな賞金をねらう戦略になっているのである」 一夫多妻は程度の問題
鳥類、カエルの仲間、昆虫の一部などに性差が逆転しているものもある
そのような種では、雄が多大な親の投資を行い、繁殖ポテンシャルも低い
性淘汰が雌の方に強く働き、雌の方がからだが大きく、けんか好きで、適応度の分散が大きく、雌の方が雄よりも早く死ぬ傾向がある
このような逆転があることは、システムを動かしているのは親による投資の差であることを支持するので、ベイトマン―トリヴァース理論のもっとも強い証拠の一つといえる
比較の観点
動物は、種によって、たがいに相関している大量の形質に関して変異があるが、それらの形質はすべて、その種に典型的な親の子に対する投資、適応度の分散、性淘汰の強さの程度と関連していることがわかる
そこで、ホモ・サピエンスも、この比較の枠組の中に容易に位置づけることができる
一夫一妻の繁殖システムとは、ここでは、個体が単一の異性個体としか繁殖しないシステムと定義する
もしも、一人の女性が産むことのできる子どもの数の最大値が8人であるならば、一夫一妻のもとでは、男性にとっての子供の最大値も8人となる
一人の人間が持つ子供の数の頻度分布は、女性と男性で等しくなり、適応度の分散も等しくなる
一夫一妻であると適応度の分散は等しくなるが、その逆は真ではない
両性ともに配偶相手をしばしば変えても、やはり、適応度の分散は両性で等しくなることはある
しかしながら、女性と男性の分散が等しいときには、「実質的に一夫一妻」と呼ぶことにしよう
なんであれ分散が等しければ、真の一夫一妻のときと同様、性淘汰は両性に対してだいたい同じくらいの影響を与えているはずだから
男性の適応度の分散が女性のそれよりも大きい場合、これを「実質的に一夫多妻」と呼ぶことにしよう
実質的な一夫多妻の度合いは、女性の分散に対する男性の分散の比で、おおまかに表すことができる
その値が同一であれば、実質的な一夫一妻、1より大きければ実質的な一夫多妻、1より小さければ実質的な一妻多夫(ヒトではほんの少しの社会で見られるものの、ほとんどすべての社会には当てはまらない, Murdock, 1967) 動物の繁殖システムでは、実質的な一夫多妻の程度を正確に測ることができるほどデータが揃っていることはほとんどない
しかし、雄の「ハーレム」の中にいる目エスの数といったような、代替変数を使うことによって、意味のある推定をすることはできる
近縁な種間でも、一夫多妻の程度には驚くほどの違いがらうことがわかる
動物の実質的な一夫多妻の度合いの変異に関してもっとも興味深いことは、その他の変数もそれに応じて変化しているということ
一夫一妻のレイヨウの種類では、雄と雌とはだいたい同じ大きさであり、同じような体格、同じような色模様をしていて、ほとんど雌雄の見分けがつかないくらい
一夫多妻傾向の強いレイヨウの種類へと移行していくと、だんだんに雄のからだが大きくなり、雌との相対的な差も大きくなる
武器的な形質においても、雌雄の差は非常に大きくなる
一夫多妻の度合いが大きくなるほど、もっとも成功した雄が得るものも大きくなると同時に、完全に繁殖に失敗する確率も高くなる
性的成功か、生存か?
レイヨウの仲間の中で様々な種類を比較すると、一夫多妻の程度が増え、性差が大きく編んるほど、死亡率も高くなり、死亡率の性差も大きくなってくるが、つねに死にやすいのは立派な雄の方
種内の競争に有利な性質を作り上げる性淘汰は、しばしば、生態学的な有効性や生存能力に働く自然淘汰とは、相反する方向に働く
一夫多妻の種の雄は雌よりも若いうちに死にやすいということは、長期的に見た体の状態の維持や生存能力を犠牲にして、現在の適応度を上げるような形質に関しては、雄と雌とに異なる淘汰が働いていることを意味している
保護下で通常の外的な死亡原因を取り除いたならば、一夫一妻の種では、雌雄でほとんど同じ寿命と予測される
一方、実質的に一夫多妻の種では、雄の方が早く老化する
たとえば、アンテキヌス属の動物では、副腎や生殖腺の機能が高まると、一繁殖期における雄の競争能力が高まるが、雄は、普通は一繁殖期しかみずに死ぬ この同じホルモン過程は、貧血や出血を引き起こし、免疫システムを抑制するので、繁殖期が終わるとすぐに雄の死をももたらすことになる
同じような議論は、心理的および行動的性質にももちろん当てはまる
一夫多妻傾向が強いほど、雄は繁殖の機会をめぐる競争でより危険な行動をとるようになる
ライバルとの闘争にともなうもののこともあれば、広い範囲に散らばっている雌を探索するために捕食者に身をさらすというような、間接的なもののこともあるだろう
配偶システムが一夫多妻的であるほど、どれだけ長く生きるように作られているかに、性差が大きくなる
ホモ・サピエンスの性淘汰の歴史
つまり、雄は「大きすぎる」
これまでに得られたすべての証拠は、ヒトの性淘汰の歴史は、実質的に一夫多妻的であったというもの
ヒトが一夫多妻的であった歴史を物語る別の痕跡は、男性の方が女性より早く老化すること
別の証拠としては、女性の方が男性よりも少しばかり早く性成熟するということもある
性成熟に達する年齢というのも、比較研究から明らかな通り、その種の実質的な一夫多妻の度合いと相関が見られる変数
それは競争的である方の性にとっては、最初の繁殖にとりかかれるようになるまでに、長い時間を要するからなのだろう
性的二型と暴力的な雄間競争は古来からのものであり、ヒトの進化的歴史の中でつねに存在した要素 5万年前にも、ネアンデルタール人の間には、現代人の男性と女性との間のほとんど同じ程度の、からだの大きさの性差が存在した(Trinkaus, 1980) ヒトが存在した限り、男が他の男を殺してきただろうことは疑いはない
かつて動物行動学者は、動物の社会では一般的に種内殺戮はまれであり、とくにヒトと近縁な動物ではそうだと考えていたが、私たちにもっとも近縁な種類も含め、多くの哺乳類において、同種他個体からの攻撃は主要な死因であることがわかった
同時に、近年の理論的研究は、種内暴力が攻撃者にとって適応的であるのはどのような条件であるかを明らかにしたので、研究者たちはそのような暴力をたんに病理的なものだとせずに、きちんと記録して研究するようになってきている
その結果、注意深い野外研究から、一夫多妻的で性的二型のある哺乳類では、雄間の闘争は、雄の死因の主たるものであることが示された
もっとも重要なのは、この20年間に、ヒト自身の暴力的な歴史について、たくさんの事実がわかってきたこと
狩猟採集民は非暴力的であるという古い考えは、イデオロギーに導かれたもので、証拠とはまったく一致しない
たとえば、ある古代の骨のサンプルでは、頭骨の骨折(明らかに棒で殴られたもの)や肋骨の骨折(明らかに刺されたもの)を、直った場合も、それがもとで死んだ場合も含め、そうと診断して数えることができる
中には、傷の中にまだ武器の破片が留められている場合もある
常に見られるのは、男性の骨の方が、女性の骨よりもそのような傷を持っている事が多く、さらに、男性は(女性の場合よりも)、そのような傷をからだの右側よりも左側に受けている事が多いが、それは、右利きの相手にやられたからに違いない(たとえば、Walker, 1985) ヒトのからだの大きさや構造における性差のどのくらいが、男性間の競争に対する特別な性淘汰的適応であるのかはまだよくわかっていない
男性のからだの大きさや力の強さに対する淘汰圧は、おもに、男性間の闘争よりも狩猟に起因していたのかもしれない
確かなのは、男性どうしが、何万年にもわたってたがいに闘い殺し合ってきたこと
その勝者が、一般的に、敗者よりも繁殖成功が高かったということには疑う余地がないだろう
現代の人間について得られる証拠は、実質的に一夫多妻の繁殖システムからくる淘汰的状況は、今でも続いていることを示している
つい最近まで、成功した男性には一夫多妻の道が開けていた
現代の法律的には一夫一妻の社会においてすら、男性は女性よりも長い潜在的繁殖期間を持っており、女性よりも頻繁に再婚し、異なる配偶相手によって続けて家族を持ち、その反面、女性よりも、まったく結婚しない確率が高い
男性の繁殖の歴史に関するデータは希少であるが、男性の適応度の分散が女性のそれよりも大きいだろうことは十分に予測される
同性内競争と暴力
競争とは、対立の下位カテゴリーで、二(またはそれ以上の)個体が、両者をともに満足させるほどにはない資源を、同じように利用しようとしたときに生じる
すべての対立が競争的なわけではない
たとえば、ある雌がある雄を拒否して、他の雄の求愛に応えたときには、その雌と拒否された雄との間には利害の対立があるが、競争しているわけではない
限定資源をめぐる競争は、ほとんどが同性内で闘われる
完全にすべてが同性内というわけではない
たとえば、雄と雌とが同じ食料をめぐって争い、ときには殺し合うこともあるだろう
しかし、競争のほとんどが同性内であるのは、同性の個体同士が必要とする資源は、異性の個体のそれよりも似通っているから
特に異性の個体は、しばしば、それを手に入れるために同性の個体同士が競争する「資源」なのだ
ベイトマン―トリヴァース理論によれば、より大きな投資をする方の性の個体に対する接近は、より少ない投資しかしない方の性の個体の適応度を限定する決定的に重要な資源となるので、後者の個体間には、配偶相手の獲得を巡って強い競争が存在する
適応度の分散が競争の強さを表しており、その競争が強いほど、つまり、その結果にかかっているものが大きいほど、性淘汰によって死に至るまで闘争を続ける事も含めて、危険な競争的戦術を取りたがるような心理が進化することになる
しばしば生物学的決定論と言われているように、男性ホルモンが必ずや攻撃性と暴力をもたらし、それが「男らしさ」なのだというような話ではない それとは反対に、この理論によれば、性差そのものも、その強度や方向において、種ごとに異なるはずだと予測され、それがどれほど異なるかについてもかなり細かく予測される(Trivers, 1972) 種間比較からの証拠はふんだんにあり、それらはこの理論をよく支持するもの
一夫一妻のオオカミやカモメやテナガザルでは、雌の適応度の分散は雄のそれと同等であり、雌同士が敵意に満ちいているのは、雄と同じ 第6章 殺しの動機は口論と名誉で、「ささいな口論」によると片付けられているものの大部分は、男性同士が地位や尊敬をめぐってつねに競争的に闘っていることが、まれに致命的な結果となって現れたものだと理解されるべきだと論じた これらの社会的「資源」が男性心理によって高く評価されるようになったのは、それが適応度と有意に結びついているから
ヒトの性淘汰の歴史が実質的に一夫多妻であり、女性よりもずっと強く男性に置いて、適応度の差が地位の差と相関しているので、男性の方が女性よりも、同性間で、危険を顧みない、対立的な相互交渉をもつだろうと予測される。
このことは、アメリカだけにとどまらず、もっと一般的に見られると予測される
様々な研究に見る同性間殺人に見られる性差では、男性間殺人の比率はほとんどすべて9割以上
これは明らかに、同性間暴力における実際の性差を過小評価している
この表には競争の結果として生じた殺人以外のものも含まれており、そのような例は、特に男性よりも女性の事件において顕著
たとえば、1980年のマイアミで起こった唯一の女性が女性を殺した事件は子殺しであり、14世紀のオックスフォードにおける一例も同じ
血縁関係にない男性同士の間の致命的な暴力の危険性は、血縁関係にない女性同士の間のそれの50倍に達する
10年間のカナダのサンプルでは、男性間の殺人は女性間のそれの16.9倍であることを示している
女性が女性を殺した例の半数以上は、母親が就学前の子を殺した事件であるのに対し、男性間の殺しでは、父親と息子の事件は3%にしかならない
このような親子間の殺人を比較から取り除くと、男性間の殺人が2861例であるのに対し、女性間の殺人は84例となる
こうなると前者は後者の34.1倍
パイの切り方をさらに変えてみると、競争は基本的に同輩同士の間で起こっているので、被害者と加害者の年齢が近いときのほうが、競争の要素が大きいのだろうと考えられる
関係者同士の年齢差が10歳を超えない事件だけを選んでみると、男性間の殺人1519件に対し、女性間の殺人は39例
前者は後者の38.9倍
合衆国での30年間の女性犯罪の増加は、完全に「窃盗」で逮捕される人間の中で女性の占める割合が増えていることによる
それすら、女性の行動が変化したからではなく、警察が女性をどんどん逮捕するようになったせいかもしれない
暴力的な犯罪、とくに殺人における女性の割合は、この三十年間に実は減少している
どんな社会においても、女性の暴力的な対立の度合いが、男性のそれと匹敵するようになったことない
マーガレット・ミードとニューギニア
性差は分化が勝手に作り上げたものであり、簡単に反転させることができるのだという社会科学の神話が、特に北アメリカではまかりとおっている
マーヴィン・ウォルフガングは、フィラデルフィアにおける殺人研究が示した巨大な性差を「われわれの文化では」、女性は、「男性よりも、肉体的な暴力に訴えることはしないように育てられている」と述べている(1958) 別のところでは、彼は、同じ現象を「社会化」と「アメリカ文化における男性性」に帰している(1978)
男と女の性質の差異などはまったく任意のものであり、いつでもひっくり返すことのできる文化的人工物であるということを、文字通り、何百万という大学生に示した
三つのニューギニアの部族に関する研究
1975年、彼女の死の三年前に、書物、学術論文、書評、インタビュー、手紙、コラムなど、彼女の出版したものは全部で1397に及ぶと報告された(Gordon, 1976) しかし、ミードの博士論文であり、彼女を有名にした著作において、彼女がサモアの文化を自分の幻想によって誤解していたことが、デレク・フリーマン(1983)の細やかで鋭い分析によって白日のもとにさらされ、彼女の民族学的研究は彼女のイデオロギーのために深刻に歪められていたことが明らかになった じつのところ、ミードは、「穏やかな」アラペシュについてしか詳しい報告をしていない
他の二つの文化では、インフォーマントが誰であったのか、正確になんと語ったのかを彼女は述べていないのみならず、ましてや、行動データは何一つ示していない
ミードの目的は友人であり師でもあったルース・ベネディクトの「文化とパーソナリティ」研究にしたがって、それぞれの社会がどんな気質を持っているかを、芸術的ともいえる技で分類することにあった ミードは、両性ともに「穏健で」「受動的」だと主張しているが、このような言葉が意味しているものがなんであれ、非暴力的かどうかは問題ではなかった
ミード自身、殺人と、槍を投げあう闘争(「おもに女性をめぐって」)を記述しているが、どういうわけか、そのようなことをするのは男性だけ
ミード以後の民俗学者、とくにドナルド・トゥーザン(1977, 1980)は、アラペシュの男たちの血なまぐさい関心事について、中でも、若い男性が成人とみなされるようになるには、必ず人を殺さねばならないという義務について記録している 『性と気質』が出版されてから4年後に、ミードの前夫であり共同研究者であったレオ・フォーチュン(1939)が『アメリカ人類学』詩に「アラペシュの戦争」という論文を発表している アラペシュは男性と女性が同一の気質を持つことが理想だとしえいるミードの主張をはっきりと否定している
ミードは、自分の話を変えることも、反論することもせず、単に彼の論文を参考文献リストに加えただけだった
ミード(1935)は、「両性ともに暴力的、競争的で、性行動において攻撃的であることが期待され、嫉妬深く、侮辱に対してすぐに反撃し、行動や戦いにおける誇示を好む」と主張
この社会については、他の社会よりもずっとわずかのことしか記録されておらず、ミードは、1973年に再訪したとき、宣教師や現代の諸々の影響によって、土着の文化はすっかり破壊されて消えてしまったと結論している
ミードの一般向けの本
男性は熱心な一夫多妻主義で、近隣の部族から妻を奪ったり、首狩りをしたりしているようだ
女性はもちろんしない
若い男性は成人の地位を得るにはだれかを殺さなければならないが、若い女性にその必要はない
男女両性とも「性交において攻撃的である」のだが、ムンドゥグモルの女性は、それ以外の観点では、暴力的傾向を男性とは異なるしかたで表す
ミード(1949)は、女性は「こみあげてきた攻撃的な衝動を、魚釣りをしたり、男性よりもよいものを食べることで表したり、自分たちが共有している夫に対し、他の妻たちよりもおいしい料理を作って出すことなどで表現したりする」
ミード(1935)では「ムンドゥグモルの標準からいっても異常に暴力的であるような尋常でない性格の人間は、彼らの社会に住むことはできない……同じように暴力的な女性は、しまいには異なる集団に送られて集団レイプのまとにされることもある」
ミード自身の言葉によれば、「われわれの文化に見られる男らしさ、女らしさの完全な反転を見出した」
アラペシュと同様、チャンブリについてもそれ以後も研究されている
セピク河畔の他の社会と同様、彼らは長い戦争の歴史を持っており、近隣の部族のいくつかを完全に絶滅させてしまった(Gewertz, 1983) 全ての伝統社会と同じく、ここでも戦争は男だけの仕事
アラペシュやムンドゥグモルと同じく、若い男性が彼の最初の敵を殺すことは、彼の人生にとって重要な一里塚
実際、それによって彼らは、ミードにはひどく女らしいと見えた装飾を身につけることができるようになる
チャンブリの女性は優位なのだとミード(1935)は主張している
「それでも、なんといっても男性の方が力が強いし、男性は妻を殴ることができる。これを考慮すると、女性優位の問題全体が非常にこんがらがってくる」
生物学ぎらい
マーガレット・ミードが標榜していた「文化とパーソナリティ」研究は、失敗に終わった
社会と個人とのあいだのひ弱なアナロジーを拡張しすぎた
ミードが研究した様々な伝統文化の人々の描写は、ステレオタイプで有りすぎるが、社会全体の「気質」を分類しようなどとしたら当然そうなるに違いない
実際ミードは、彼女自身の自民族中心主義に気づかず、隣同士に住んでいるアメリカの家族間の文化の違いは、ニューギニアの部族間の違いと同じくらい大きいと主張している マーガレット・ミードが私たちに残した神話は、その周辺の領域や論説誌、アメリカ人が世界を見る見方の中にいまだに生き続けている
現在使われている61の心理学の教科書を対象に行われた最近の調査によると(Minderhout, 1986)、最も多く引用されている人類学者はミードで、『性と気質』が彼女の著書の中でもっとも多く引用されている 51の社会学の教科書においても、彼女は(ルース・ベネディクトと並んで)もっとも多く引用されている人類学者
彼女が作り上げた神話を後世の人間が勝手に解釈する
興味深いのは、神話がいかに、社会科学者や論説者の必要をうまく満たしいているかという点
私たちの社会的性質は、なんとでもなる文化的人工物であり、それゆえに、私たちの「社会化の方法」を変えさえすれば、どんな社会でも自由に作り上げることができるということを示しているようだ
これは非常に全体主義的な見解のように聞こえるが、そうではない。この新しい、改良された社会化の方法を作っているのは、万人にとってもっともよいことを心の底から望んでいる良い人々だから
このような思想を正当化するような社会科学は、生物学ぎらいであるというしかない
「生物学的必要と心理学的衝動とは一様に分布しているので、ある一つの行動を、他の行動との関連において説明する役には立たないといえるだろう…生物学も…心理学も…なぜ犯罪は圧倒的に女性よりも男性に多く、郊外よりもスラムに多く、老人よりも若者に多く、田舎よりも都会に多いのかを説明する助けにはならない」
社会科学者の書くものの中には、「生物学的」ということは「固定的」で「遺伝的」で「本能的」であるということえだり、それは、「社会的」なものや「文化的」なものや「学習」によるものと対立する、と言う主張が見られる
このような用語の使い方は、生物学の諸分野を理解していないことを暴露している
生物の構造、機能、成長、起源、進化、現世の生物の分布など、生命と生命過程を研究する学問
社会科学は生物学の一分野であり、そうだと考えたほうが、社会科学者自身も得るところがずっと大きいと私たちは考える
生物学はその定義上、全ての生命科学を包含するのみならず、社会科学が無視して損をしてきた、包括的な概念的枠組みを提供するものだということ
進化的洞察、とくに淘汰の理解にもとづいている
淘汰は、細胞から心まで、生物の構成要因であるものを「デザインする」ような創造的な過程なのだから、このことは驚くにあたらない
ジョージ・ウィリアムズ(1966)が述べているように、「人間の心に対する理解は、それがデザインされた目的を知ることによって大いに助けられるだろうと考えるのは、妥当ではないだろうか?」 考古学者が、地層の堆積を研究するように言われながら、地質学は「還元主義」だから拒否するとしてみる
妥当な結果がいくつかは得られるかもしれない
しかし、それによって努力を無駄にし、意味のない解釈に振り回される危険性は、必要以上に高くなるだろう
考古学者が研究している現象の一部は、よく知られている地質学的プロセスの産物であり、それらの産物について知りたいと思わない考古学者は自ら招いたハンディのもとで研究することになる
もちろん、こんな愚かな考古学者はいないだろうが、生物学嫌いな社会科学者はこれと同じようなポジションにいる
「ヒトの解剖学と生物学とを知っているばかりでは、社会的に劣位にある方の性が女性であることを予測することはできない」
ハリスは生物学的視点の無意味さをはっきり示せたと考えているが、彼は、自分がいかに進化理論に疎いのかを示した
解剖学と生物学の視点だけでは女性の方が「攻撃的テクノロジー」や「複数の弾性からの性的サービス」をコントロールするように興味を持つなるという考えは、皮肉なことにたいへん性差別的な「解放された」女性は男性的に考え、行動するだろうという予測
性差の原因について
社会科学に広まっている生物学ぎらいは、理由があって進化理論を批判しているためというよりは、無知に端を発しているというのが、私たちの確信である
性差に関する一般によく言われる説明は「文化」
カナダにおける夫婦間の殺人を研究している社会学者は、マーヴィン・ウォルフガングと似たようなことを述べている(Chimbos, 1978) 「両性における……暴力的犯罪における大きな差異の一部は、文化的な条件づけによって説明される。たとえば、北アメリカでは、攻撃的であることや肉体的に強いことは、男性の発達において重要なことであるが、やさしさや穏健さは女性の発達において強調されている」
この文章が明らかに示していることは、もしも他の文化で条件づけされたならば、男性が女性よりも暴力的でなくなるだろうということ
アモクというのは、東南アジアのいくつかの社会に繰り返し現れる現象で、若い男性が、自分自身が殺されるか止められるかするまで、たくさんの他人を殺してまわる現象 「過去一世紀半の研究で、アモクになった女性が一人もいないということも、おそらく、社会心理的視点から理解できるだろう。彼女らは男性よりも社会的に低い地位にいるので、彼女らは、それほど社会的な変動から影響を受けない。特権や信頼できる社会的役割は、家庭において与えられるのである。ストレスがたまったときには、彼らの文化は、ラターのような破壊的ではない方向に怒りを向ける代替行動を提供している。男性が公衆の前では「静かな心」を維持していなければならないラオスでも、女性は、家庭では大声で感情をあらわにしても構わない。それゆえ、このような文化では、女性は彼女らの領域(家庭)において、敵意をもっとはっきりと表すことができる。それができないときにも、社会的に処方された兆候は、取り返しのつかない暴力へとは駆り立てないのである」
しかし、アモクと同じような兆候を示す殺人衝動は、なにも東南アジアに限られたことではない
すべての社会において、女性は「敵意の感情を曲げる」ような「社会的に処方された」手段を持っていて、男性は持っていないのだろうか
13世紀のイギリスにおける殺人について、おなじみの性差を前にした歴史家が、その時代の社会習慣によって説明を与えようとしている(Given, 1977) 「加害者としても被害者としても、女性が殺人に関わるレベルがずっと低いのは、この時期において両性が期待されていた社会的役割の違いによって、一部は説明されるだろう」「紛争を解決する手段として女性が暴力を使うことに対する強い社会的文化的抑制」
この「説明」で困るのは、現在の北アメリカのように、女性の方が厳しく罰せられることがないような場合にも、やはり女性はあまり暴力的には振る舞わないこと
もっと一般的に言えば、通文化的にどこでもみられる現象を、文化的、歴史的に特殊な原因で説明しょうとする戦略は、基本的に誤っている
ドナルド・サイモンズ(1987)は、「進化理論によって裏打ちされた想像力」によれば、一般的に、ヒトの脳・心は、自然淘汰と性淘汰によって形成されたおおがかりで複雑な、特殊な目的に総合的に対処できるマシンであり、学習の原理や、いくつかの「第一強化要因」によって発達していくものだというもの 少なくとも、こちらの方が、「社会化」その他の発達的要因の性質について、はっきりさせようとする問題意識を持っている唯一の社会科学である心理学の本流が採用してきた考えであった
性差の問題については次のように言える
行動に見られる性差は、そのすべてが、社会的に与えられた強化と性役割の社会化による、個人の生活史の違いによるのだろうか?
それとも通常は「社会化」という言葉で包含されているものとは別の、性によって異なる発達的過程が働き、性淘汰が、男性心理と女性心理とを異なるものに作り上げたのだろうか?
ここで問題にされていないこと
遺伝子と環境のどちらが大きいか小さいか
すべての発達的過程は、遺伝子の働きと環境の両方に完全に依存している
性に固有の行動が学習されるものかどうか
「学習」の結果として生じてくる表現型の性質は、たまたま学習とは無関係な発達過程で生じてくるような表現型の性質とまったく同様に、自然淘汰と性淘汰によって変容可能 女性と男性との間に見られる特定の行動的差異をもたらした原因が、遺伝的な違いにまでさかのぼれるかどうか
文化に固有な任意の性役割の社会化によって引き起こされるところの性差であっても、結局は「遺伝的な性差までたどりつく」のである
「遺伝的」だということの意味するところは、別のものでもよかったかもしれない形質が、別のものでもよかったかもしれない遺伝子型にたどりつく、何らかの因果関係がある、ということ
性差について、違うアプローチをとってみよう
男性と女性との間の行動的性差をすべて取り去るためには、男の子と女の子をまったく平等に扱うか、異なる扱いをするか
社会学の一般通念によれば前者
社会的に異なった扱いを受けているということ以外に心理的な差はないというもの
しかし、いくつかの証拠によると、そうではないことが示唆される
男性と女性は、通文化的に同じような違いを見せるだけでなく、さらに、私たちの種に固有な形態的な二型から予測され、性淘汰の理論から予測されるのと同じ性差を見せる、という証拠がある
もちろん、そのような実験は、ヒトを対象には行われていない
男女は、性役割的社会化の過程に帰するのは難しいような、いくつもの認知的、情報処理的プロセスにおいても異なることが知られている
男性は、自分の視野の右側と左側に提示されたものを異なるスピードで処理するが、女性は同じスピードである(Heister, 1984) このような性差の帰納的な意味が何であるのかについては、まだよくわかっていないし、性に固有の認知スタイルについて、これがどんな意味を持っているのかについても同様
しかし、それらには何の意味もないと仮定するには早急だろう
この形態的違いは生まれる前から明らかであり、このことは、女性の方が両半球間のコミュニケーションに優れているが、男性では、それぞれの半球の一側化が進んでいることを示す証拠が蓄積されてきていることから考えれば(McGlone, 1980)、当然予測されることかもしれない この問題のもう一つの側面であるところの、性役割の社会化が性差を作り上げるのにどれほど重要な影響を及ぼしているかについては、直接の証拠は非常に少ない(たとえばPleck, 1981) 公平に言えば、この問題は、方法論的に非常に難しいということを指摘しておかねばならない
例えば、もしも、両親が女の子よりも男の子をよく罰したり、女の子の方に多く子守をさせたりしても、両親は、行動的性差を作り出しているのと少なくとも同じくらいに、もともとの行動的性差に反応している
実際、これらの特定の例では、男の子のほうがよく罰を受けるが、それは、男の子のほうがよく悪いことをするからであり、男の子のほうが、下の兄弟姉妹の面倒を見るようにと親から言われても、あまりやりたがらないので、親は最終的に女の子の方にその仕事を任せることを示す証拠がある(たとえばMaccoby & Jacklin, 1974) この研究によれば、初期の頃の親の行動に関する個体差が、子供の後の行動の個体差をよく予測する要因であり、子どもの性別は、驚くべきやり方で影響を与えている、重要な変数であるらしい
親は性によって子供に異なる扱いはしていないのだが、同性内を見た場合、親の行動の測定値が子供の後の行動を予測する様子が、女児と男児では異なっていた
この研究の著者らは「環境と親子の関係の測定の差は存在せず、予測通りの性差が存在するという、この二つの発見を組み合わせると、同じ経験でも、男児と女児では異なる影響を持つということが示唆される」と結論している
社会科学の一般通念を疑う、さらに強力な理由がある
雄と雌の適応度は、様々な変数から異なる影響を受けている
一つの明らかな例は、1984年にベイトマンが指摘した、「雄の繁殖能力の方が受精の頻度に大きく依存している」こと
もしも一般通念が正しいのなら、つまり、男性と女性の心理が淘汰によって異なるように形成されてはいないのならば、だれかが、なぜそうなってはいないのかを説明せねばならないだろう
つまり、一般通念が科学的理論として抱えている問題は、それを支持する証拠がほとんどないことや、それに反する証拠がたくさんあるというだけではない
さらに大きな問題は、どのような理論的枠組のもとで、性差のない心理が予測されるのかが提出されていないし、説明もされていないことである
一貫性もなく支持もされない理論が、なぜ一般にはまだ人気があるのか
答えの一部は、社会科学者のほとんどが生物学を知らないことにあり、それは、イデオロギー上の理由と関連している
生物学を「決定論」と同一化することにより、多くの社会科学者は、性差の研究に対する、生物学的情報に基づいたすべてのアプローチを侮辱してきた
心理に性差はないという、ありえそうもないような説は、依然として教科書に現れ、仮説ではなくドグマとして繰り返し主張されている
性差が発達してくる原因は、当然、議論の多いところであろうが、差があるという事実に議論の余地はない